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セイコーの挑戦と苦悩の物語04

前回からの続きです。

会社の迷走が決定的になるのは1987年といわれています。企画に寄りがちな社内において、製造部門の重要性を認めていた2人の役員が相次いで亡くなったのです。第二(当時の社名はセイコー電子工業)と諏訪(当時の社名はセイコーエプソン)の社長を兼任していた服部一郎が5月に、服部セイコーの会長だった服部謙太郎が9月に相次いで亡くなると、謙太郎の弟の服部礼次郎に権力が集中しました。
服部礼次郎
※服部礼次郎


礼次郎は秘書室勤務の鵜浦(うのうら)典子を取締役に登用し、二人で会社を私物化していきます。二人は自分達に批判的な役員・社員を降格や左遷し、確固たる権力の基盤を整えます。さらに礼次郎は企画や販売には熱心でしたが、製造部門のテコ入れには関心がなかったと言います。

礼次郎の権力強化により、企画が主導して商品開発が行われるようになります。しかし、その企画の多くは不発に終わり、負債を積み上げることになります。その間、セイコーグループに利益を生んでいたのは、セイコーエプソンのプリンターなどでした。本社の企画の発言力が及ぶ部門が負債を出し、及ばない部門が利益を出すため、問題点は明らかでした。

しかし礼次郎の独裁は変わることなく続き、かつて主軸だった腕時計も、セール品として投げ売りされるようになります。今やセイコーは経済界の巨人であり、巨人は中枢神経を病魔に侵されていたのです。しかしそういう状況であっても、新たな息吹も芽生えていました。

1988年のスイスの時計見本市、バーゼルに1人のセイコー社員が参加していました。彼がセイコーに新しい風を送り込みます。


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プロフィール

井上 毅

Author:井上 毅
はねもね
福岡県出身
東京都在住
以前やっていたブログ「はねもねの独り言」の続編です。

外資系金融機関に勤めながら、あちこちに出没しています。

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